高校でガチのラグビー生活スタート。新鮮な仲間たちと怖かった監督
ー そこからラグビーが強い「國學院栃木」に進学するわけですよね。それは何か理由があったんですか?
尾又選手 中学校の夏休みの時に、国学院栃木のラグビー部が主催のラグビーキャンプがあったんです。ラグビーが強い子が集まってくる合宿みたいな形だったんですよ。
そのキャンプに僕は中学2年生から参加していたんですが、めっちゃ楽しかったんです。それで、翌年、中学3年になってまた参加した時に、前年キャンプで一緒にやっていた一学年上の先輩が、国学院栃木のラグビー部に入ってたんです。その人たちが仲良くしてくれて。
茗渓高校、桐蔭高校などの強豪に行くことも考えたんですが…そんなこともあって、国学院栃木に入ったら知り合いもいるという理由で体育技能推薦って形で入りました。
当時、ラグビー部に入るには頭を坊主にしなきゃいけなかったので、まぁ、坊主になったっすね(笑)
そこから寮生活が始まったので、本当の意味でガチのラグビー生活がそこから始まりました。
ー 國學院栃木ってかなりの強豪だと思うんですが、栃木の中ではどうだったんですか?
尾又選手 当時の栃木県のレベルもあると思いますが、花園に出るのは、ほぼ決まっているような学校でした。正直、本番は花園からみたいな感じでだったので。
僕も運良く高校1年の時から花園に出てましたし、僕の代が高校2年生の時が本当に強かった。
どの試合でも結果を残していたので、花園でも全国の高校で3つしかないシード権をうちの高校が獲得してました。優勝できる年だったんですよ。
ただ、その年は東海大仰星に負けて、ベスト8止まりでしたね。
実はその東海大仰星の試合では僕がやらかしてしまって…本当に先輩方には申し訳ないことをしてしまったな。という感覚でした。
自分たちが3年生になって負けた試合よりも、その試合が一番悔しかったですね。
ー 國學院栃木に入っての寮生活で初めて親元を離れた生活を経験されたと思うんですが、どのような感覚でしたか?
尾又選手 本当に新鮮でしたね。僕が育った場所って、茨城の中でも本当にアクセスが悪い田舎だったんです。
それに比べて國學院栃木って栃木市にあるから、栃木以外の他の県から来ている人もたくさんいて、学内にいろんな人がいるんですよね。僕はほぼ知り合いもいない状態で、転校生的な扱いでした。
新しいクラス、新しい友達、他の部活の子達とも仲良くなったし、結構ワクワクした日々でした。
ラグビー部の先輩たちも、フィジカルがすごい強くて最初はびっくりしましたね。コンタクトした瞬間に本当に驚くくらい。
練習の強度にも最初は「やばいな。これ毎日やるんだ。」って思いましたよ。ついていくのに精一杯でした。
あと、監督の吉岡先生はマジで厳しくて怖かったです。怖いというか男気の塊のような方で。
そこで初めて「大人ってすごい怖いんだな。」という感じましたね。高校3年間ずっと怒られる時には怖いな!って思ってました。
ー 怖い中にも「男気」があるとおっしゃっていましたが、怒られている時はどのような心境だったんですか?
尾又選手 最初はビビっちゃってましたね。1〜2年生の時はプレーの内容や、人間的に未熟な部分を怒られていたんですが、3年生になって怒られる内容が変わってきたというか。
3年生でまとめ役になると「チームのためにこうしたほうがいい」という内容で怒られるようになったのかなぁ。リーダーとして怒られていた感覚ですね。「リーダーのお前がそういうことじゃダメじゃん!」みたいな形で怒られてました。
ー 怖さの先に、先生への畏敬の念を抱くようになっていたんですね。
尾又選手 いやいやいや…今話しているから、そういうこと言えるだけで。
高校の時はどうやって怒られないようにするか、怒られている時間をどうやり過ごそうか…みたいなことばっかり考えていました苦笑
でも、今覚えているってことはやっぱりその時の自分にとっては、大事なことだったんですよね。
明治大学で出会った「八幡山おじさん」と「バケモノ同期」たち。
ー その後、明治大学のラグビー部に進まれるわけなんですよね。そこもやはり推薦という形だったんですか?
尾又選手 そこなんです!そこでも実は一悶着あって、実は推薦もらえるはずだったんですが、僕のパフォーマンスが一時、ひどい時があって、推薦が取り消しになっちゃったんです。
その時は焦りましたけど、セレクションはなんとか受けさせてもらえるということになって、そこで合格という形でしたね。なんとか入れました。正直、危なかったです。
ー そんなことがあったんですね!では、入ってからは、より頑張らないと!って気持ちがあったんじゃないですか?
尾又選手 気持ちはあったんですけど、入学と被るタイミングで左の肩にボルトを入れるくらいの手術を経験しているんです。
だから、手術後、半年は激しい練習はできなかったんですよ。本格的に始めたのは夏でしたね。
最初はレベル別に上からA〜Dチームと分かれている中の一番下Dチームからのスタートで。
底辺からのスタートだったんです。ポジションも今とは違ってSO(スタンドオフ)でした。そのSOでは全然上のチームに上がれなかったです。
その当時の明治大学ってABチームとCDチームで練習がガッツリ分かれていたんですね。上と下のチームで練習する場所も内容も違ったんです。
だから、なかなか上のチームに行けなくて「どうしよう、どうすれば…。」と悩みました。その時にコーチにポジションの変更を申し出たんです。スタンドオフからセンターに移動させてくれないかって。
そしたら、「お前の体の大きさじゃ、センターは無理だ。体を大きくしたら考えてやってもいい」という風に言われたんですよね。
そこからが結構大変でしたね。普段の練習ではチームに迷惑をかけないようにスタンドオフをこなしつつ、居残って自主練も行い、また体を大きくするために食事も増やして、プロテインも飲んで。
食べるのが苦手だからこの食トレが一番きつくて。
そしたら、大学2年生に上がる時にコーチが認めてくれてセンターを任せてもらえることになったんですよ。
しかも、いきなりBチームでの登録でプレシーズンマッチを迎えたんですね。その試合でさらに認められて、次の試合ではAチームで登録されて…。
そこから先はずっとAチームにいるような形でしたね。僕の個性が、明治のセンターというポジションにハマったんでしょうね。
ー ポジションが変わると一気に開花するようなことは、ラグビーではよくあることなんですか?
尾又選手 僕の場合は、小学校の頃から様々なポジションをやってきたところも大きかったかもしれない。大学一年生の時もスタンドオフを経験したから、センターに行った時もスタンドオフとの連携も取れるし、ウイングになってからも、スタンドオフとセンターが何を考えているか解るようになってた。
一つのポジションにこだわる選手もたくさんいますが、僕はいろんなポジションを経験して引き出しを増やしていけたので、それが良かったのかもしれません。
ー 明治大学時代に印象に残っていることはありますか?
尾又選手 明治大学のファンの方々とのやりとりは本当に印象深かったですね。
良い意味で熱くて、ちょっと乱暴で。熱血な方が多いんで、本当に我が子を応援するくらいの熱量で声をかけてくれましたね。
試合に勝ったら、涙を流して喜んでくれるし、負けた時はもうすごい勢いで怒られてましたね。
明治大学ラグビー部は毎朝、朝練があるんですよ。そこに必ず来ているおじさんたちがいるんです。
通称「八幡山おじさん」って言われていたんですけど。
その方々が本当に明治のラグビー部の全ての選手を把握しているんですよね。
A〜Dチームの全員を把握しているんです。毎日見ているから目が肥えているんですよ。だから、チームのどの選手が調子上がっているのかも、おじさんたちが一番最初に気づいたりするんです。
ー 尾又選手はその八幡山おじさんたちとは仲が良かったんですか。
尾又選手 仲良かったですよ。良い人たちなんですよ。応援にも本当に心がこもっているというか。
「俺らも全力で応援するし、俺らの代表として戦ってくれよ!」みたいなことを言ってくれるんです。
そういう熱血で豪快な気質が明治のラグビー部にはありましたから、僕は好きでしたね。楽しかった。
ー 大学でラグビーを初めて、高校までのラグビーとは違うと感じたことはありますか?
尾又選手 ありますね。まだ僕が大学1年生で試合に出れてなかった時、国立競技場が改修工事で最後の国立で早明戦がめちゃくちゃ盛り上がった試合があったんです。
ユーミンが来てノーサイドを歌ってくれたりして。
その時の観客数が確か55000人くらい入っていて、圧倒されましたね。歓声が上から降ってくるような感じなんですよ。だから、プレーしている選手の声なんて全然聞こえないんです。
僕はボールボーイとして競技場に手伝いにいったんですけど、観客の声に押しつぶされそうな気持ちになったんですよ。
その時、直感的に「今の俺のレベルじゃ、この試合には出れない。」って感じました。ビビっちゃったんですよね。ああいう感覚はその時、初めて感じました。良い経験でしたね。
その試合に、僕の同期の1年生が二人出ていたんですよ。その二人は高校日本代表だったし、元々すごいと思ってはいたんですけど、プレーしている姿をみて「こいつらに追いつきたい」って気持ちになりました。
そこから頑張って2年生の時にAチームに入って、同じグラウンドでプレーした時には、すごい嬉しかったです。明治の看板を背負って一緒にプレーしている感じもなんか嬉しかった。
ー 大学に入って、バケモノのように強い選手に触れる機会が増えたってことですかね。
尾又選手 それはそうですね!
高校までは、先輩に対して「すごい」と思うことはあっても、同級生にそんな感覚を抱いたことは無かったんですよ。大学に入ったらやっぱり同期でもバケモノのような選手がいましたし、すごいと純粋に思っていました。
それはプレーに対してすごいと思ったのではなくて、気持ちに対してすごいと感じてましたね。
自分がビビってしまったあの声の届かない国立競技場で普通にプレーをしている精神力がすごいなと。だから、彼らと一緒にラグビーするのは嬉しかったです。
認めてもらいたい。がラグビーを続けるモチベーションだった。
ー 高校まで持っていた自分自身が一番だという自信が一瞬揺らいだりもしたんですか?
尾又選手 今、話してて思ったんですが、僕は小学生の時から一番になりたいっていうよりも、「認めてもらいたい」って気持ちの方が強かったのかもしれないです。
親に認めてもらいたい、先輩に認めてもらいたい…大学に入ってもスゴイ同期二人に認めてもらいたい。
その一心でラグビーに打ち込んでいたのかもしれませんね。
途中まではその形でモチベーションを保っていたんです。そこがプロになった今とは違うんですよね。
ー 他の大学との交流で思い出深いことはありますか?
尾又選手 それこそ、帝京大学と試合したときはボコボコにされました。流大さんとか姫野とか今の日本代表の中心選手が勢揃いしていましたから。明治大学だって日本代表選手がたくさん出ているはずなのに、全然勝てませんでした。
それこそ、NECで同期の亀井(亮依)もその帝京のキャプテンでした。
ー 大学時代から親交はあったんですか?
尾又選手 いや、話しかけはしましたが、当時の亀井は怖かったです。目とか吊り上がってましたしね。
今、同じチームになってその当時のことを話したりするんですが、帝京大学時代は全く余裕がなかったって言ってました。当時から帝京はプロチームより練習が厳しいって聞いてましたし、キャプテンの時は、とにかく生きていくので精一杯だったらしいです。
そういえば、大学の試合でもアフターマッチファンクション。つまり、選手同士の懇親を深める会でも帝京の選手はお酒飲めないんですよ。成人していてもダメ、オレンジジュースを飲んでるんです。
だから、最初、NECに来た時には亀井のことはとっつきづらい奴ってイメージだったんですけど、あっちも僕のことちゃらんぽらんな奴って思ってたみたいですね笑
亀井には「お前は帝京大学じゃなくて明治が合っていたから、来なくて良かった」って言われましたよ。
今はNECの唯一の同期ですし、仲良いですよ。
(後編に続きます)