【前編】「褒められたくて走った少年、プロのラガーマンになるまで」尾又寛汰ロングインタビュー

尾又寛汰
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グリロケのWTBで一際目立つ選手…といえば「尾又寛汰」の名前が頭に浮かぶのではないでしょうか?
一度ボールを持てば、きっと何かしてくれる。試合中に熱いプレーで会場を沸かせてくれるインパクトプレーヤーです。

NECグリーンロケッツに移籍してプロ3年目。インタビュー時、30歳を目前と控えた彼に、現在の心境を聞くと、

「ラグビーに関してはよりギラギラしていきたいですよね。そういう意味では初心に戻りたいというか。」
と、その気迫は若手の選手のそれを超えています!

5歳からラグビーを始め、小学校時代はラグビーに行くのが嫌なこともあった。
そこから「褒められたい」というモチベーションをバネに、小さい目標を一つずつクリアしてプロのラガーマンという場所に辿り着いたカンタ選手。

ラグビー歴25年、全力疾走のスピードを今なお更新し続けている、尾又選手の人生の軌跡をぜひご覧ください!
(編集・酒井公太 写真提供・ひーちゃん)

目次

物心ついた頃から、ラグビーをやるのが当たり前だと思っていた

 本日はよろしくお願いします。

尾又選手 よろしくお願いします!

 尾又選手は今年で30歳(誕生日は11/2)を迎えるわけですが、ラグビー自体はどれくらい続けていらっしゃるんですか?

尾又選手 5歳からです…もう25年目ですね。

 そんなに長くつづけていらっしゃるんですね!ラグビーを始めたきっかけは覚えていますか?

尾又選手 もう尾又家では男に生まれたら全員ラグビーをやるって決まっていたんですよ。

父親も帝京大学でラグビーしていましたし、おじちゃんも明治大学でプレーしていたOBだったり。
母親の兄も筑波大学でラグビーしていたそうで、トヨタでプレーしていましたし…。

さらに、家の近くに日立製作所のラグビーチームの少年団、つまりラグビースクールがあったんです。そこに5歳の時に連れてってもらってからずっとラグビーをやっています。とにかく、周りがラグビーをやっていたから、普通に僕もやるものだと思っていましたね。

 幼少期の時に初めて、最初はどのような気持ちで始めたか覚えていますか。

尾又選手 覚えています!
僕と一緒にスクールに入ってきた5歳児の中でスゴイ子がいたんですよ。入ってすぐに上の学年の子と一緒に試合出たりして、とにかくスゴイ子がいたんです。

結局その子は中学から茗渓に行って、筑波大学からトヨタに進んで、周囲もそいつが一発でスゴイってことがわかるくらいにすごいんです。

それに比べて、僕は親に訳もわからぬまま「やれ」って連れてこられている状態でしたから、最初は全然伸びなくて。

そんな状態で小学3年生くらいまではパッとしない感じだったんです。だから毎週一回の練習も本当に行きたくなくて。

特に練習の日って小学校が休みの日の朝9時から始まる予定だったんです。それで、僕の家からラグビーの練習場まで行くには最低でも30分かかったんですね。

そうなってくると、僕の見たかった8時半から始まる戦隊モノの番組が見れないんですよ!
それが、すっごい嫌で!!
むしろ、その嫌だったって気持ちが幼少期の頃としては、一番鮮明に覚えていますね。

小学3年生の時に覚醒!監督である父親に褒められたかった。

 そんなに嫌だったのに、小学校3年生の時に気持ちが変わった…?!

尾又選手 そうなんですよ!

なんかその時期に急に「覚醒した」感覚を得たって言うんですかね。元々、足は速い方だったんですが、その時期に人を抜くためのラインが見えるようになったんですよ。

 覚醒した瞬間って覚えてるんですか?

尾又選手 たまたま良いランをした記憶はあるんですよね。
そこで「イケる!!」って気持ちになってからは、周りの人の動きが、感覚的にわかるようになってきたんです。
そうなってからは、どっぷりラグビーにハマりましたね。

 その時に見ていたご両親は、やっぱり褒めてくれたんですか?

尾又選手 いや、そこはウチの父親は本当に厳しくて全然褒めてくれないんです。ラグビー以外のことには何か言ってくることはないんですけど、ラグビーについてはものすごく厳しく言われましたね。

実はその時、僕の父親が通っていたラグビースクールの監督も兼ねていたんです。だから小学校、中学校と褒められた記憶は無いですね。

 親であり、監督でもあったお父さんのもとでプレーしていたんですね。

尾又選手 はい。そんな感じだったから、その時期は一度でいいから父親をラグビーで見返してやりたかったんです。いや…やっぱり褒めてもらいたかったのかもしれない。

だんだんと年齢を重ねて行くと僕がエースみたいになっちゃってたから、他の選手のご両親とかはスゴイ褒めてくれてたんです。それはそれで嬉しかったんですけど…。

ウチの父も器用な感じじゃなかったから、多分、上手に切り替えもできなかったんです。普段は冗談を言い合うくらいに仲がいいんですけど、ラグビーの時は怖かったし、褒められたことなかったですね。

今思えば、他の親御さんの目もあったし、監督だから自分の選手をひいきにしているように見られたくなかったのかなぁ。でも、その当時の僕は「なんで褒めてくれないんだよ。」とモヤモヤしていました。

 お母様はどうだったんですか?

尾又選手 実は母親は母親で、またラグビーに対して厳しいんです。特に覚えているのは僕の体の大きさについてのエピソードですかね。
僕は中学1年生から2年生の時期に他の選手と比べて体がすごい小さかったんです。ただプレーはちゃんとできていたので、茨城県の県選抜に中学校2年の時に選ばれたんです。

ただ、県選抜の監督が体が小さいからという理由で僕を全然試合で使ってくれなくて。「体が小さすぎて危ない」って、ウチの母親に伝えたみたいなんです。

母親はものすごい責任感を感じたみたいで、そこからは食トレ(食べるトレーニング)が始まるんです。

僕、実はご飯をたくさん食べるの本当に苦手なんですけど、「食えっ!!」って母親に怒鳴られながら食べてましたね…。その効果があってか、その時期に今現在の身長ぐらいまで一気に体が大きくなったんですよ。

あと、体が小さかったで思い出したんですが、その頃に自分にとっての良いプレーを考える時間が増えたかもしれない。体が小さい分、どうやって走れば相手を置き去りにできるのか…そういうシミュレーションは良くやってました。

目標を一つずつクリアしていくタイプだけど、努力アピールはしたくない。

 そこまで周りが協力してくれると、尾又選手の方もラグビーの真剣度が増したんじゃないですか?

尾又選手 うーん。その頃は今ほどはラグビーに熱くもなかったんですよね。
その時期はラグビーを楽しむためにやっていた感じはあります。プレーはたぶんイケてたと思うんですよ。試合も毎回出てましたし。

ただ、モチベーションがそんなにあったかと言うとそうではなかった。どちらかと言うと、親に勧められたから、ラグビーをやっている気分がまだ大きかったのかもしれません。

 中学校の時点では、ラグビーでプロ選手になるという意識はあまりなかったんでしょうか?

尾又選手 ぼんやりとはあったかもしれませんが、明確にプロ選手になるっていう感じではなかったです。
僕って先の見えない目標をもって動くのが苦手なんですよ。大きな夢を持っていた方が動ける人もいると思うんですが自分はそういうタイプじゃないから。

それよりも目の前の目標をひとつずつクリアしていって先に進むタイプなんです。

たとえば、その年に出たいと思っている試合に出る。とか、この高校、大学に行きたいから頑張る。とか。
そのために、今の自分に何ができるか考え続けて、結果的に一歩一歩登っていって、今はプロのラグビー選手になれたってことだと思うんです。

そう考えると、中学校くらいの時のラグビーは自由だったし楽しかったですよ。
今みたいにルールがたくさんあるわけではないし、作戦もあってないようなものだったんです。

そもそも僕らが通っていたラグビースクールは練習が週一回くらいの頻度ですから時間が限られているわけです。その中でどうにかして合わせていくというか。

試合になってもその場で決めることのほうが多かったんですね。ほぼ個々の力でなんとかするぞ。というノリだったんです。だから僕も自分の力を高めたら勝てると思っていました。

ただ、茗渓中学のようにラグビーを部活で毎日やっている名門学校と試合した時には、本当にボコボコにされました。めちゃくちゃ強かったです。

 中学時代は基本的に楽しくラグビーをやっていたんですね。

尾又選手 いや、楽しいことばかりじゃなかったですね。結構、嫌な思い出もたくさんあるんですが…。

一番嫌だったのが、父親と母親に自主練のために「外を走って来い!」って強要されたことです。
なんか決められたコースを走らないといけない感じにされたんですよ。

しかも、その走れって言われる時間が、同級生がちょうど下校してくるタイミングで走っているところをみんなに見られるんです。

なんか周りに「すげぇ頑張ってるヤツ」みたいに思われたくなかったんで。あの頃は思春期だったし、恥ずかしかったんです。親ともそのことについては、当時、言い合いになりましたね。

あの頃からその「恥ずかしい」って気持ちはあまり変わってないかもですね。人に頑張っているところを見せるのがあまり好きじゃないっていうか。努力アピールはしたくないんです。

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